『不合格教科書・第5版〜ほぼ合格の完結版』の販売を開始しました、巻頭記事の全文をここに無料公開します。



「第五版」刊行に寄せて

 

 毎年春になると、最新版の『中学歴史不合格教科書』を発売してきた。これで五冊目である。しかし、もう不合格教科書を発売するのは、今回で最後としたい。

令和三年六月に文部科学省の教科書検定に提出した「第四版(令和三年度版)」は、検定の最終段階に進むも、不合格となった。しかし、令和三年度内に「修正表」により大幅な修正を施した「修正第四版」は、欠陥箇所の指定が僅か残っただけで、合格に限りなく近づいたとの感触を得ている。

従来は、教科書検定に提出したものを『中学歴史不合格教科書』として発売してきたが、今回は文科省から欠陥箇所として指定された箇所は修正せずに残し、他の部分は、より良い教材にすべく全編に大幅に加筆修正を施し、新しい著作を「第五版」として上梓することとした。それが本書である。

今回の加筆修正は、偏差値上位の高等学校の入試試験を分析し、それに対応できる内容にすること、中学歴史の用語集にある要素は可能な限り書き込むこと、他社の教科書と比較して基本的な事項を網羅することなどである。入試に必要な情報は、ほとんど網羅することができた。そのため、本書は、検定に提出した図書(修正第四版)から大きく進歩したものとなっている。

令和三年度の「修正第四版」で、文科省が欠陥箇所に指定した部分は実質的には一八カ所あり、本書では傍線を引いた。また巻末に、文科省が指摘した欠陥内容と、調査官に求められて提出した根拠資料を掲載した。また、第四版までの経緯は、このあとに記述したので、続けてご一読頂きたい。本書(第五版)にさらに修正を加えた「第六版・令和五年度版」を、令和五年度の教科書検定に提出し、合格を目指す所存である。

 毎年、調査官から厳しい指摘を受け、修正に修正を重ねることで欠陥箇所の数を減らすことに尽力してきたが、その指摘のおかげで、より正確でより充実した教科書に成長することができたと思う。

 

 

なぜ私たちは中学の歴史教科書にこだわるのか

 

 平成二十五年に福岡県で行われた高校生建国意識調査によると「日本はいつ建国したか」「日本を建国したのは誰か」という二つの問いに対して、正しく回答できた生徒は、それぞれ約二パーセント程度しかいなかったという(山本みずき「18歳の宣戦布告 国家観なき若者に告ぐ」、『正論』平成二十五年五月号)。

 もし米国の高校生に「米国はいつ建国したか」「初代大統領は誰か」と問うたら、ほとんど全員が即答するだろう。中国の高校生に「中国はいつ建国したか」「初代国家主席は誰か」と問うても、やはり同じように全員が即答するはずである。その理由は「学校で教えているから」にほかならない。世界に国連加盟国は一九三カ国あるが、学校で建国の歴史を教えていない愚かな国は、おそらく日本をおいてほかにないであろう。

 日本人が外国に留学すると、現地の生徒たちから日本のことをいろいろ聞かれるが「今年で日本は建国から何年か」「初代の天皇は誰か」といった質問に答えられないと、軽蔑の眼差しを向けられる。それは、米国に生まれ育っておきながら、しかも高校や大学にまで進学しておきながら、米国初代大統領の名前を知らない人間などいるはずもないからである。日本に生まれ育って初代天皇の名前を知らない大学生がいること自体、世界の人々にとっては信じられないことなのである。

 日本の高校生たちが日本の建国の経緯を知らない理由は、「学校で教えていないから」にほかならない。自由社と育鵬社を除き、普及している約九六パーセントの中学歴史教科書には、建国の経緯が書かれていない。そして高校でも同様であり、その結果が、冒頭に示したアンケート結果である。

 そして、日本の教科書が建国の経緯を書かない理由は、戦争に負けたことが原因である。GHQがあらゆる出版物に適用した『プレス・コード』も然ることながら、教科書検閲に用いたGHQの『教科書検閲の基準』の影響が大きい。GHQは同基準に明記された次の五点について、教科書から徹底的に排除したことが現在にまで影響を与えているのである。

 

・天皇に関する用語

・国家的拡張に関する用語

・愛国心につながる用語

・日本国の神話の起源や、楠木正成のような英雄および道義的人物としての皇族

・神道や祭祀、神社に関する言及、等々

(高橋史朗『検証・戦後教育』広池学園出版部)

 

特に注目すべきは「道義的人物としての皇族」は教科書に掲載してはいけないということ。元寇にあたり、自らの命を差し出してでも国民の命を救ってほしいと伊勢の神宮に祈った亀山上皇の話、不作で飢えに苦しむ国民に三年にわたり税を免除した仁徳天皇の「民の竈」の話などは、教科書に掲載できなくなった。

 また「楠木正成のような英雄」も教科書には書いてはいけないとされ、たとえ名前を紹介することはあっても、英雄的な逸話は教科書には書けなくなった。神話の起源や、神道や神社についても教えることができなくなった。直近の学習指導要領では若干緩和されたが、普及している教科書では『古事記』という書名は紹介されても、神話の内容は書かれない。そのため、多くの日本人は日本神話を知らないまま大人になってしまう。

 我が国を建国した神武天皇の話は「道義的人物としての皇族」「楠木正成のような英雄」「神話の起源」の三つの意味において、教科書には名前すら紹介されない。ゆえに、普及している中学の歴史教科書には、日本の建国の経緯が書かれていない。神武天皇について触れないのであるから当然の帰結である。

 とはいえ、教科書が建国について触れなければ、教科書にぽっかりと穴が開いてしまい、きわめて不自然な内容になってしまう。弥生時代から、いきなり奈良の都が整備された律令国家の時代に飛んでしまっては生徒も訝(いぶか)しがるにちがいない。

そこで、占領下の教科書執筆者たちは考えた末、一つの奇策を思いついたようである。それは、建国の時代は考古学の知識で埋め尽くすことにより、建国の経緯に触れずに、切れ目なく日本列島の出来事を教科書に収録することができるということである。考古学が文字を研究対象としない、つまり固有名詞を扱わない点に注目したのではないか。建国から統一までの間を考古学で説明すれば、天皇にいっさい触れずに説明できてしまうのである。たしかに、大型古墳が造営されるようになり、それが全国に広がっていくことを考古学的に説明すれば、何らかの勢力が全国に拡大して列島を統一したことを説明することはできる。

しかし、その結果、古墳時代から飛鳥時代への接続がきわめて不自然になってしまった。先土器時代から古墳時代までは考古学、飛鳥時代以降は歴史学で語られるため、その境目で違和感が生じることになる。勘の鋭い生徒はその違和感に気づいたのではあるまいか。具体的には古墳時代までは出土物と遺跡などの遺構の話に終始し、年号や固有名詞が登場しない。考古学は文字を研究対象としないため当然である。ところが、飛鳥時代以降は、年号と固有名詞が列挙される。考古学と歴史学はまったく別の学問で、研究対象も違えば、研究の手法も異なり、両方の学問の間の交流も乏しい。「考古学の教科書」だったものが、章をまたぐことで突如「歴史学の教科書」に変化するのであるから、その異常さは決して小さなものではない。

実際、普及している中学の歴史教科書は、古墳時代までを考古学のみで説明している。その結果、大和朝廷が成立してから、古墳時代が終わる六世紀末まで、歴史資料にいっさい触れず、また年号と固有名詞にもいっさい触れずに説明してしまっているのである。普及している中学の歴史教科書は、天皇(もとは大王)の成立や、大和朝廷の成立と拡大について、何ら説明をしていない。

このようにして、天皇の成立と我が国の建国と統一の経緯は、歴史教科書から完全に排除されてしまった。

 これでは、どれだけ教科書を熱心に読み込んでも、我が国の成り立ちを知ることはできない。民族とは、神話と歴史と言語を共有する人たちを意味する。このような教育を何十年も続けていたら、日本人の民族性は失われていくにちがいない。

 天皇や皇族に関する誇らしい逸話や、国民的英雄の逸話をはじめとする、GHQによって消された部分は、占領が解除されても教科書に戻ることはなく、現在に至る。我が国が独立を回復してから教科書検閲は行われなくなったものの、『プレス・コード』と『教科書検閲の基準』は不文律として今に残っているように思える。天皇の英雄的逸話を掲載すれば「軍国教科書」と罵られる。現に自由社と育鵬社の歴史教科書はそのような扱いを受けてきた。

 昭和二十年代後半の、共産主義者たちが武力闘争に励んでいた時期、日本共産党幹部の志賀義雄は次のように武力闘争を批判した。

 

「なにも武力革命などする必要はない。共産党が作った教科書で、社会主義革命を信奉する日教組の教師が、みっちり反日教育をほどこせば、三十~四十年後にはその青少年が日本の支配者となり指導者となる。教育で共産革命は達成できる」

 

 教科書さえ書き換えれば、武力闘争などをせずとも共産革命すら可能だというこの言葉は恐ろしいながらも真理を述べていると私は思う。実際、中学の歴史教科書は、きわめて反日色の強い不適切なものが長年使われてきたのである。

 しかし、その逆もまた然りである。もし真っ当な教科書が普及したなら、真っ当な青年が育ち、将来、日本の指導者になって、そのときに本当の日本が復興するのではあるまいか。正しい教科書を普及させることの価値はじつに大きい。そのために有志が集い、始まったのが『国史教科書』編纂計画である。主筆である私と、竹田研究会学生部の大学生四名で執筆に取り組むことになった。

 

 

これまでの経緯

 

我々は平成二十九年春に『国史教科書』(中学社会歴史的分野)の執筆を開始し、平成三十年四月に文部科学省の教科書検定に申請した。しかし、同年十一月に文科省から「検定申請図書に係る検定審査不合格の理由の事前通知について」という通知を受けた。欠陥箇所を通知する書面では個別の記述に対する指摘はなく、一〇項目について「全体」として欠陥を指摘するのみの二ページに収まる分量だった。印象としては門前払いに近い。我々は申請自体を取り下げ、『中学歴史 平成30年度文部科学省検定不合格教科書』(令和書籍)との名称で、一般書籍として上梓した。

令和元年に新学習指導要領が施行され、「第二版・令和元年度版」を平成三十一年四月に文科省に提出した。ところが再び不合格となり、前年同様、欠陥箇所の通知の書面では六項目について「全体」の欠陥が指摘され、やはり個別の内容についての指摘はなかった。二度目の門前払いである。

教科書検定で不合格となった出版社は、翌年度に再度、検定を受けることができることから、修正した「第三版・令和二年度版」を令和二年六月に文科省に提出したが、三度目も不合格になった。ところが、三回目(令和二年度版)では、六〇五項目の具体的な欠陥箇所の指摘があった。一回目と二回目は全体の欠陥箇所の指摘が一~二ページの紙にまとめられていただけだったが、三回目は七四ページにわたって個別の欠陥箇所が指摘された。検定三回目にして、初めて具体的な欠陥の指摘を受けるに至ったことになる。

ところが、手渡された欠陥箇所の指摘を読んでも、意味がよく分からない項目が多く、不明な点については教科書調査官に質問してよいと言われたが、その時間は書類を手渡されてから三時間に限定されていた。六〇五項目について一分ずつ質問しても十時間以上となるため、目に留まった項目を矢継ぎ早に質問してみたものの、尋ねきれない項目を多く残したまま三時間が経過してしまった。そこで、まだ聞けていない項目について質問する機会はないかと問うたところ、この三時間を除いて質問はいっさい受けつけないとのことだった。教科書検定審査要項によると、一〇〇ページあたり一二〇カ所以上の欠陥を指摘された申請図書は、年度内の再提出が認められない。我々が提出した申請図書は、その数を超過していたため、同年度中の再提出は認められなかったが、翌年の再提出により合格を目指すことにした。

我々は修正を施し、四回目となる「第四版・令和三年度版」を、令和三年六月に提出した。これについては、二六六項目の欠陥箇所の指摘があったが、一〇〇ページあたりの欠陥箇所が一二〇以下だったため、年度内に修正表を提出できることとなった。補足説明を受ける場が設定され、与えられた二時間半の間で調査官に質問したが、やはり時間切れとなった。しかし、不明な点があれば電話で調査官に質問してもよいと告げられた。当初は、具体的な欠陥も伝えられず、電話もメールも受けつけないという境遇だったが、四年目にして、初めて「人」として扱われたような気がした次第である。

欠陥箇所が伝えられたのが十一月二十五日、一次修正表の提出が一月五日で、約一カ月の間に二六六項目を修正する必要があった。十二月には何度も文科省に電話して、調査官から欠陥内容を詳しく聞き取り、なんとか修正表を期日までに提出した。しかし、問題はそこから先である。一月二十八日に文科省から連絡があり、一次修正表の欠陥箇所を「電話」で伝えるとのこと。その数も多く、週末を除いた四日間(約二十時間以上)を費やして、ようやく二月二日に聞き終えた。だが、修正表の再修正が許されるのは二月九日までであり、一週間の間にすべての欠陥箇所の修正を二次修正表に反映させなくてはならなかった。当社からは修正案を調査官にメールで送り、その可否を聞いて修正案をまたメールで送ることを繰り返した。

そして、二次修正表修正期限の二月九日午後の段階でようやく、すべての欠陥箇所について、調査官との間で修正について確認を終了した。その確定した修正内容を正確に修正表に反映できれば合格となるはずであったが、当日の午後に内容が確定しても、それを正確に修正表に反映させる編集作業は難航し、指定された十八時十五分までには間に合わない状況となり、電話で相談したところ数時間くらいなら待つとのことだったため、大慌てで書類を取りまとめ、一度の見直し作業もできないまま印刷して、転がるように文科省に最終の修正表を提出した。

しかし、そのようにまとめた書類に反映ミスがあったほか、一つの文章に複数の欠陥の指定があった場合の修正表の書き方で問題が指摘された。つまり、各欠陥箇所の指摘ごとに修正するのか、すべての指摘をクリアしたものを表示するかの違いである。文科省が示している規則類にそのような書き方について定められていなかったが、異議を申し立てても取り合ってもらえなかった。結果としては、すべての欠陥箇所について調査官と修正のすり合わせができていたにもかかわらず、修正表の編集ミスと、修正表の書き方の体裁上の問題により四一箇所の欠陥箇所が残ったかたちになってしまった。規則では再提出は二回までと定められているため、令和四年度の提出はできない。令和五年度の教科書検定に再挑戦する所存である。二次修正票の修正を施し、全体的に大幅に加筆修正したのが本書(第五版)である。

これまでに一般書籍として上梓した「不合格教科書」の売り上げによる収益金は、教科書検定に提出した教科書の制作費用に充てた。その結果、年ごとに全体の分量が増加したほか、多くの写真や図版を取り入れることができたので、この場を借りて、一般書籍をお求めになってくださった方々に御礼を申し上げたい。

 

令和五年三月三十一日

『国史教科書』主筆 竹田恒泰

 

 

『国史教科書』の特徴

 

■日本人のための教科書

 この教科書は「日本人の日本人による日本人のための教科書」であり、『国史教科書』と名づけたのはそのためである。終戦まで日本の学校には「国史」という教科があった。しかし、GHQの指示により「国史」教育は停止され、後に中学では「歴史」、高校では「日本史」という教科名に変更して再開することになった。教科名が変更されただけでなく、内容も一変した。「日本史」になったことで「外国人が学ぶ日本の歴史」と同じものになってしまったといえる。

 アメリカ人が学ぶアメリカ史と、外国人が学ぶアメリカ史は、表現やまとめ方が異なるはずであり、それは日本でも同様である。アメリカには「アメリカ史」という教科はなく「国史」(National History)という教科がある。また中国の学校にも「国史」という教科がある。

 残念ながら、普及している中学歴史教科書の多くは、各章が中国→朝鮮→日本の順序に書かれているものや、日本人にとって誇りに思える逸話が消されたままになっているなど、「日本人の日本人による日本人のための教科書」とはかけ離れていた。

 この教科書は、タイトルに「国史」が入っているだけでなく、内容も「日本人の日本人による日本人のための教科書」といえるに相応しいものを目指した。そのため、神話教育に一定の紙幅を費やし、また学問的見地から我が国の建国の経緯を明らかにし、二〇〇〇年以上、一つの王朝が継承されたことに主軸を置いて、各章を構成した。各時代の冒頭を日本の話から書きはじめているのはそのためである。


■建国を歴史学と考古学の両面から探究した

 普及している大手の中学歴史教科書では、考古学で古墳時代の終わりまでを説明しているが、『国史教科書』では歴史学と考古学の両方を用いて弥生時代後半から古墳時代を表現した。これにより、神武天皇が日本を建国し、その後の歴代天皇が国の礎を定めた経緯を克明に描写することができた。

 

■時代区分を日本国史の視点から区切りなおした

 中学の教科書を読んでいると、変なところで時代が区切られているのに気づく。たとえば、平安時代の途中で章が変わり、「古代」から「中世」に入ったり、江戸時代の天保の改革あたりで章が終わり、「近世」から「近代」に入ったりする。この矛盾は、「古代」「中世」「近世」「近代」という歴史区分を、ヨーロッパの歴史を基準に組み立てているから生じることである。

 日本国史を基準に見るなら、平安時代が終わるときが「古代」が終わるときで、江戸時代が終わるときが「近世」が終わるときになるはずではあるまいか。そこで、『国史教科書』では、平安時代までを「古代」とし、鎌倉時代・室町時代を「中世」とし、安土桃山時代・江戸時代を「近世」とし、明治時代から終戦までを「近代」とし、終戦後を「現代」とした。これにより、時代の途中で章が終わるという矛盾を排除した。

 

■縦書き

 現在検定に合格している中学歴史教科書はすべて横書きである。日本国史の教科書に横書きは馴染まないため、『国史教科書』は縦書きにこだわった。そもそも日本語は縦に書くことを基本としている。これだけ多様な時代であっても、新聞は縦書きを基本としているし、書店に並ぶ書籍の大半は縦書きである。しかも、電子書籍も同様であるばかりか、若者が読む漫画も縦書きが基本である。化学式や数式などが並ぶ理科学系の書籍ならまだしも、なぜ日本の歴史を学ぶ教科書が横書きであるのか。そもそも横書きを選ぶこと自体、著しく不適切と言わねばならない。『国史教科書』は全編、縦書きで構成されている。横書きに比べて、読みやすく理解しやすい教科書に仕上がっている。

 

■幕府ではなく朝廷を軸にした

 これまでの中学歴史教科書は、幕府や為政者を中心とした政治史を綴るものであった。しかし、幕府は時代とともに栄枯盛衰があり、権力者は移り変わるものであるのに対し、朝廷は短く見積もっても二〇〇〇年以上、万世一系によって継承されている。ならば、日本の歴史は幕府を軸として語るのではなく、朝廷を軸として語るべきではあるまいか。そこで『国史教科書』は、どの時代も朝廷を軸に語ることを心がけた。それにより、時の権力者が移り変わっても、朝廷が日本の歴史の核を為していて、一つの国家が連綿と継続されてきたことを理解できるように仕上がった。

 

■日本の歴史に興味が持てる作り

 普及している中学歴史教科書は、日本人が誇りに思える逸話を意図的に避けて作っているように見受けられる。占領下の教科書検閲により、日本人が誇りに思える逸話はすべて削除されたが、占領が解除されてから七十年になる。誇りに思える逸話を教科書に書くことは、むしろ日本人が日本を理解するうえで必要なことではなかろうか。

 そのため、『国史教科書』では、生徒たちが日本の歴史に興味を持ちやすいように、随所に工夫を凝らした。その一つが、我が国は現存する世界最古の国であることを述べた巻頭言である。また、二〇〇〇年間、日本だけが唯一切れ目がない世界史の年表、一二六代にわたる皇位継承図などを冒頭に掲載したのもそのためである。そのほか、仁徳天皇の「民の竈」の話や、昭和天皇がマッカーサー元帥と対面なさったときの話など、日本人として知っておくべき重要な逸話を多く盛り込んだ。

 

■捻じ曲げられた歴史を正す

 これまでの自虐史観に基づいて、事実と誤ったことが浸透してしまっていることがある。たとえば南京事件である。『国史教科書』はこれをただ無視して書かないのではなく、書いたうえで、事実ではないと思わせる指摘をいくつか載せることで、生徒たちがおのずと虚偽であることを知るような書き方を心がけた。

 また、慰安婦問題については、コラムに朝日新聞の誤報問題を取り上げ、新聞でも大きな過ちを犯し得ることを明確に示した。

 世界四大文明が虚偽であることは学問上決着がついているにもかかわらず、普及している大手の中学歴史教科書は、いまだにこれを述べている。『国史教科書』はその誤りも指摘した。

 これまで米は朝鮮から伝わったと教科書で書かれてきたが、日本から朝鮮に伝えたことがDNA鑑定で判明したにもかかわらず、これを指摘する中学歴史教科書はこれまでなかった。『国史教科書』はその点も明確に説明した。このように捻じ曲げられた歴史を訂正する箇所は多数あるので、本文を確認していただきたい。

 

■自虐的歴史用語を排除

 これまで自虐史観に囚われた歴史学者たちが、我が国を貶めるために作り上げた歴史用語があり、それらが中学歴史教科書に多用されてきた。

 そこで『国史教科書』は、そういった自虐的な歴史用語を使用しないことにこだわった。たとえば、「日中戦争」という用語は一般的に教科書で使われているが、当時「中国」という国はなく、中国大陸は中央政府のない混乱期であった。したがって日本と中国という二つの国が戦争をした事実はないため日中戦争という表記は妥当性を欠く。そこで『国史教科書』では「支那事変」という用語にこだわった。

 自虐的な用語は対外関係だけではない。後鳥羽上皇が挙兵して北条方に敗れたことは、一般的には「承久の乱」と表記される。しかし、上皇こそが官軍であり、鎌倉幕府軍は朝敵であったはずであるから、上皇が乱を起こしたというのは日本の価値観に合致しない。ここは「承久の変」というのが正しい。そのほかにも、『国史教科書』は用語にはこだわったので本文を確認されたい。

 

■先の大戦について

 普及している大手の中学歴史教科書は、先の大戦について勝ち目のない戦争と評価しているが、『国史教科書』は勝ち目のあった戦争であると評価している。これは単なる観測を述べたのではなく、日米の兵力差などのデータを示して、根拠をもって指摘した。

 勝ち目のない戦争をしたことが罪であるなら、日清戦争と日露戦争も罪にならなくてはいけない。日清・日露戦争は勝ち目のない戦争に勝ってしまった事例であり、対米戦争は勝ち目がある戦争に負けてしまった事例である。このことを明確に記した。

 また、米国による原子爆弾の使用について、その意思決定の経緯を詳述し、米国の無差別虐殺の実態を正確に伝えることに努めた。


■イロハニホヘトを採用

 通常、アイウエオ、ABCDEなどで順番を示すことが多いが、『国史教科書』は漢数字とイロハニホヘトを採用した。

 

■紀年法は元号を軸に

 普及している大手の中学歴史教科書は、つねに西暦で書かれていて、元号は必要最低限、しかも括弧書きで書かれている。そこで『国史教科書』は原則、元号で表記することにし、西暦は「年」を省いて括弧書きにした。

 

■大きさへのこだわり

 これまでの中学歴史教科書はJIS規格とは外れる大型の変形判で、平らな机に広げて読むのが基本であった。やはり文字を中心とする書籍は、両手に持って読める形状のほうが読みやすく、頭にも入りやすいのではないかと考えた。そのため『国史教科書』はA5判を採用した。この判型であれば、机に広げて読むだけでなく、手に持って読むことも容易であり、公園のベンチに座りながら、あるいは電車やバスのなかで読みやすい大きさになった。